スポンサーサイト

  • 2010.07.28 Wednesday
  • -
  • -
  • -
  • -
  • -
  • by スポンサードリンク

一定期間更新がないため広告を表示しています


特攻ライブラリー第2回取材/中村真さん


平成21年7月4日、(財)特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会様にご協力いただき、特攻ライブラリー第2回目のインタビュー撮影を行いました。

お話を伺ったのは神奈川県在住の中村真さんです。

語り口調もやわらかで、実に「好々爺」という言葉が相応しいジェントルマンですが、時折眼鏡の奥で光る鋭い眼光が、中村さんの並々ならない戦争体験を示唆しているように感じました。

中村真さんは当時の逓信省にあった航空局航空機乗員養成所を修了し下士官として陸軍に入隊。岐阜飛行学校、浜松飛行第105戦隊を経て、満州国鎮東の教導飛行第95戦隊に配属となり、百式重爆撃機『呑龍』の正操縦士として船団護衛や対潜水艦哨戒任務に付きました。

昭和19年2月、中村さんの部隊は命令を受けてフィリッピン・クラークフィールド基地に進出。そして同年の12月14日に、中村さんは重爆特攻「菊水隊」隊長機の2番機として出撃し、ネグロス島沖で敵機との激しい戦闘の末に撃墜され、ゲリラ兵に捉えられて連合軍側の捕虜となったのです。

中村さんの自著「死に損ないの挽歌」では、捕虜になってからの生活の様子が時にユーモアを交えて紹介されております。

「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が軍人、民間人に多大な影響を与えていた時代。しかし、中村さんが捕虜収容所で目にしたのは、意外にも大勢の日本兵が元気に飯を炊いている姿でした。

『有難き戦陣訓の御託宣だが、そんなもの糞食らえ!のバイタリティだ』

中村さんはそのように当時の感想を書いています。

一度は仲間と脱走を試みますが、にわかに警備が厳重になり頓挫します。

『私達は今日は何日なのか、今は何時なのかなどはどうでもよくなっていた。何時死ぬか分からない身であれば、死ぬまで生きてやろうというところだ。』

捕虜収容所の中で、中村さん達は手作りの道具で野球に興じたり、自分達で演劇会を催したり、あるいは身体を鍛える為に空手やボクシングをしたりと、まさにバイタリティに溢れる毎日を過ごします。

『死ぬまで生きてやろう』

「生きる」ことの意味があまりにも不透明な現代の日本。「死」というものを意識できないから、我々は真剣に「生きる」こともできないのではないか。

飛行機乗りとして常に死を覚悟し、事実、幾つもの死線をくぐり抜けた20歳の中村さは、「死」を噛み締めたからこそ「生きる」ことの真の意味を見いだした、私にはそのように思えます。

語り続ける中村さんを撮影しながら、被弾し海面に墜落するその瞬間まで、操縦桿を握り、スロットルを操作して一生懸命『死ぬまで生きてやろう』とした若き中村さんの顔を思い浮かべておりました。

『死ぬまで生きてやろう』

その意識こそが真の意味で生命を享受することに繋がるのではないかと考えさせられた取材でした。

世田谷特攻平和観音月例参観日


梅雨明けの夏空が広がった18日、特攻平和観音様の月例参拝が世田谷観音寺で行われました。この日観音堂の前で、陸軍衛兵隊(軍事法規研究会)、海軍衛兵隊の皆様によるラッパの奉納がありました。

陸軍衛兵隊様ホームページ
http://www.geocities.jp/shiragane_rikueitai/

海軍衛兵隊様ホームページ
http://homepage1.nifty.com/TS/NHG/

夏の木漏れ日がラッパ隊の帽子に肩に静かに揺れ、観音堂の前はしばしタイムスリップしたかのようでした。

この日は小学校の先生もおいでになり、直会で熱心にご質問なさっていたのが印象的でした。またお父様が旧海軍パイロットで自身は左翼運動に没頭していたという方もあり、直会は皆さんそれぞれ様々な視点から意見や感想の交換をする実に有意義な時間であったと思います。

直会お開きの後はラッパ隊の皆様が規律正しく参拝者を見送ってくださいました。

皆様暑い中ご苦労様でした。

特攻ライブラリー第1回取材/前村弘さん


平成21年6月28日、(財)特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会様のご協力を仰ぎ、特攻ライブラリー第1回目のインタビューを行いました。

お話を伺ったのは都内在住の前村弘さんです。

身振り手振りを交えながらの白熱した戦場体験談から笑顔を交えた思い出話まで、実にたくさんのお話をいただき、一同、時の経つのも忘れついつい長居してしまいました。

前村さんは四式重爆撃機『飛龍』の航法士として、昭和20年3月の東海沖特攻作戦、同4月の沖縄特攻作戦と二回の特攻作戦に参加しながらも、九死に一生を得て生還されたという壮絶なご経験の持ち主です。

昭和19年、陸軍特別幹部候補生第1期として浜松第7航空教育隊3中隊に入営。同教育隊における3ヶ月の基礎訓練の後、4ヶ月の宇都宮飛行部隊航法学生教育課程を経て、飛行第62戦隊へ転属。前述の通り四式重爆撃機『飛龍』の航法士として、跳飛弾爆撃訓練の猛訓練に明け暮れました。

昭和20年3月19日、飛行第62戦隊に急遽出撃命令が下ります。前村さんにとっての初陣。緊張した面持ちで整列する前村さん。その目に飛び込んで来たのは黒板にハッキリと書かれた次の文字でした。

「攻撃ハ特攻トス」

それはまさに唐突な特攻命令でした。

勇躍出撃したものの、攻撃隊は敵艦船を発見できずに引き返し、出撃4機中、2機が未帰還。このとき前村さんの乗機は前村さんの見事な航法により無事浜松基地に帰還しています。

昭和20年4月17日、前村さんは2度目の出撃命令を受けます。このころ第62戦隊は正式に特攻部隊に指定され、その第一陣として、前村さんの乗機を含む3機が沖縄方面に出撃することになったのです。

しかしながら、攻撃隊は与論島付近で敵機の迎撃を受け特攻攻撃を断念。3機中2機が未帰還という壮絶な戦闘の中、前村さんの乗機は20発以上被弾しがらも奇跡的に鹿屋基地に生還を果たしました。

「当然死ぬべき身であった私がこうして生きている。(中略)こうして生きていることが、共に出撃して戦死された方々を思うにつけ、只々申し訳ない気持ちで一杯である。」

前村さんは手記の中でそう心境を語っておられます。

私のような平和ボケした人間にはその胸中を推し量ることすらできません。しかし、前村さんが生還なさったからこそ、戦闘の模様、戦死なさったご戦友の事など、貴重なお話を伺うことができたし、それを忘れずに語り伝えることで、ささやかながらも慰霊とさせていただけるのではないかと、僭越ながらも考えている次第です。

はじめに

 古今東西、祖国瀕死の窮状において殉国の志士が現れるのは世の常ですが、旧日本陸海軍おける特攻作戦のような生還を期さない戦術が組織的に継続されたのは、人類史上他に類を見ない事態であったと言えましょう。

このブログは、私達の活動を紹介すると共に、広く有志の方々に投稿を呼びかけ、特攻という究極の攻撃によって散華された若者達の魂を長く語り続ける場とし、もって特攻隊戦没者の慰霊に代えさせていただければと切に願うものです。



calendar
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930  
<< November 2017 >>
PR
selected entries
categories
archives
recent comment
links
profile
search this site.
others
mobile
qrcode
powered
無料ブログ作成サービス JUGEM